Mosalogy

会社辞めてハーバードの大学院に来ちゃった感じ

アウトプットで脱廃人計画

2019年、廃人化が止まらないmosaです。


思考の言語化の重要性について語られることが増えてきているように感じます。最近では「アウトプット」というように横文字が使われている。


ただ、いくら

「アウトプットは重要です。みんなもっとアウトプットしようよ。」

という風に言われても、


「いやいや、そんなこと言われても何をアウトプットすればいいのかわからないよ」

「今は何も知識がないから、インプットに専念するよ」


となってしまいますよね。

僕はそういうタイプです。他にもそういう人は多いはず。



そういう人って、結局のところ自分に厳しいというか真面目なんだと思います。



わかりますか?僕、いま遠回しに自分のこと真面目だって言ったんです。



要は、アウトプットに対すハードルが高いから、なかなか跳び越えようとしない。


ハードルなんて設けなければいい。ハードル走をただの50m走に変えてしまえば、ただ走るだけでいいのです。



どういうことかっていうと、例えば

「今日はこんな本を読みました。これを批評・解説しようと思います」

なんていうのがアウトプットだと感じているのでしょう。


確かに、インターネットで検索すればそんなようなブログ投稿はいくらでも見つかります。


だから、自分もそのレベルのことをしなければならないと感じてしまう。



「今日はこの本を一通り読んだけど、ぶっちゃけ何も頭に入ってないからアウトプットなんてできないよ。」

「今日はただ仕事をしただけの平凡な1日だったし、なにを見聞きしたわけじゃないから何も記すことなんてないよ。」


と、思ってたりしませんか?



もっといくと、

「2019年、初日から頑張ろうと思ったのに30分の昼寝のつもりが5時間寝てしまって本当に廃人以外の何者でもないよ」

となっていませんか?




え、そんなやついないって??



います。私です。



(時差ボケだと信じています。確かに最近、夜の寝つきは悪かった)



わかりますか?僕は先程、5時間の昼寝をした自分を「真面目な人間だ」と遠回しに表現したのです。




ただ思うことは、いくら廃人だと自分自身を揶揄できても、一応は人間なのです。健康かどうかは人それぞれでしょうが、五感はあるのです。


だから、何もしていないように見えても、実は何かをしている。


アウトプットに対して尻込みをしてしまうのは、自分が今日体験した物事がそれに足るものではないと判断してしまうから。

こんなものを例えばブログに書いても、誰も得をしないと思ってしまうから。


アウトプットっていうのは別に本やブログ、SNSなどの形に残るものでなくても、ただ友人に日常会話として話すだけでもいい。




ここ最近のなかでも最も酷い廃人の僕を例にとってみよう。ハーバードの学生という肩書きがなければただのニートである。



「今日は30分の昼寝のつもりが5時間睡眠になってしまった。」

いま、とてつもなく自分を嫌っている原因である。



いま、こういうクソな1日の振り返りをシンプルに言語化した。

これ、もうちょっと掘り下げられないだろうか。


(いま書きながら思ったが、掘り下げるためにはやはり目に見える形で言語化するのがいい。)




何故?と問いかけるのがとっつきやすい掘り下げかもしれない。


・なぜ30分の昼寝をしようと思ったのか

・なぜ5時間も寝てしまったのか

・なぜ5時間の昼寝でこんなにも自分を嫌っているのか


ほかにも

・「とてつもない」という表現、どうしてこういう言い方をするんだろう?その由来はなんだろう


という疑問だって湧き上がる。

これは上記を言語化する中で無意識にこの表現を使ったからこそ生まれた疑問だ。



いまリアルタイムでこれを書いているからわかる。


もし言語化していなかったら、こういう疑問を抱くこともなかっただろう。





次はこれに対して自分なりに思うことを書いてみる。「自分なり」というのがポイントで、Googleや書籍を漁り一般解を探さなくてよい。それはまだ自分に厳しいというか、高いハードルを設けている証拠だ。



・なぜ30分の昼寝をしようと思ったのか


眠かったからリフレッシュしたかったというのが一つにあるだろう。(何故眠かったかはおそらく後述されるので省略)

しかし、それ以外にも「寒かったのでベッドでぬくぬくしたかった」というのが大きいかもしれない。これはつまり突き詰めれば

「眠かったというより、そこにベッドがあったから」

になってしまうのかもしれない。


そこにベッドがあった理由はもちろん自分の部屋にいたからであり、さらにその理由は「洗濯物を回収しに戻ったから」だ。


ベッドに入った理由は寒かったから。つまり外に出るより家の方が温かいし、更にベッドの中の方が温かいから。



・なぜ5時間も寝てしまったのか


昼寝の理由は寒かったからかもしれないが、それでは5時間睡眠は説明がつかない気がする。気がついたら5時間が経過していたわけで、その間「寒いからまだ出たくない」とすら意識しなかったのだから。


前述の通り、時差ボケかもしれない。週末の夜はベッドに入ってこそいたが、途中で何度も目が覚めた。眠りが浅かったことは十分にあり得る。そういえば日中もカフェや家でうたた寝をしていた気がする。



あるいは午前中のジムが原因かもしれない。日本にいたころは運動をろくにしていなかった。それがアメリカに帰ってきてから急に運動したもんで、数日分の疲れが溜まっていたのかもしれない。


いずれにせよ、体が求めていなければ、寝ることはなかったのである。




ここまで言語化して気がついた。

アウトプットはすごい。


何故なら数分前までは自分のことを「なんてクソな廃人なんだ」と責めて止まなかったのに、数行上では


「きっと疲れてたんだから仕方ないよ」

という風に無意識に自分を慰めているのである。俗にいう正当化だ。


これだけでもかなりの儲けものだが、このままでは何も得るものがないような気がする。次に進もう。



・なぜ5時間の昼寝でこんなにも自分を嫌っているのか


一言でいうと、機会損失だろう。これは経済学の教科書を開けば序盤に出てくる考え方で、「その選択をしたことによって、別の選択肢が犠牲になった」というようなものだと思う。


「時給1000円のバイトを2時間サボりパチンコで2000円すってしまった」

財布から消えた分である2000円の損失と考えるのではなく、きちんとバイトにでていれば得られるはずだった2000円をも得られていないわけだから、4000円の損をしたという考え方である。要は、選択前後を比べるのではなく、異なる選択肢をとった事後を比べるのだ。



すごくないですか。ただ昼寝しただけなのに、なんか経済学の端っこに触れていますよ?


(ちなみに上記が合ってるかどうかは気にしない。ハードルは低く低く。間違ってても気にしない。仮に他人に間違った知識を植えたとしても、こんな昼寝ブログから経済学を学ぼうとする奴がいけないのである。徹底的に開きなおろう。)


しかし脱線は否めない。昼寝の話に戻ろう。

起きていられたはずの時間を失ったことで、できるはずだったことができなくなったと考えているのである。



具体的にはなんだろう。

・アメリカの平日初日、研究室に顔を出して「うぇーい」と言う。「日本はどうだった?」「いやー、飯が美味くて最高。すでにホームシックだよ。」というテンプレートの会話をする。自分の帰省中に新しく短期でラボに加わったぽいメンバーに会って自己紹介をする。まだ会ってないが、机の上に置いてある持ち物やメモを見る限り、ヨーロッパの女の子だろう。


→こう書いてみると、これをしなかったことがそんなに損失とは思えない。別に今日である必要はなかった。

そもそもラボに行かなかった理由は行く必要がなかったからである。早朝に起きてやることはやった。やることが少なかったのは、アメリカに帰ってきて細胞培養を開始して間もないからだ。生物実験は時間がかかる。

上記のテンプレート会話をするくらいなら5時間身体を休ませた方がマシだ、とさえ思えてきた。


・自分を嫌いになるような夢をみた


→夢の内容は基本的に覚えない派だが、この昼寝で見た夢はなんとなく覚えている。


どこか遠くで、グループでバーベキューか何かをしようとしている。

僕は先輩と集合場所に行くルートが重なっていて、途中駅で一旦待ち合わせて、そこから一緒に集合場所に行こうとしていた。


「着きました!」「おっけー、じゃあ○○像のとこにいるね」

なんてLINEをしていた。

あいにく僕が駅をでたとき、そこは○○像とは違う出口で、僕はぐるっと回ってそこに行かなければならなかったが、何を思ったか、僕は電車に乗って自分の家に帰ってきてしまったのだ。

当然なんの連絡もしていない。家に帰ってきて、ベッドに入って寝たのだ。


昼寝から覚めたころには、先輩からのラインとグループラインが溜まっていた。


そりゃあそうだ。着いたと連絡した人間が一向に現れないのだ。ばっくれるとかいうレベルではない。


母親が部屋に来た。「あんた今日お出かけじゃなかったの?」「うん、寝ちゃった。」「何やってんの、なんとかしなさい」


僕は言い訳を考える。

「すみません。待ち合わせ場所まで行ったんですが具合が悪くなって帰りました。バーベキューは行けませんでしたが、二次会から行きます」

とでも投下しようか。いや、いくら体調不良でも、急に連絡が途絶えた理由にはならない。電池が切れたことにしたらいけるか?いや、だったらせめて○○像まで行って先輩に会ってから事情を話して家に帰るのが筋だ。


なぜか家に帰り昼寝をするという不可解な行動をカバーできる言い訳が見当たらないのである。



...というところで目が覚めました。つまりは昼寝で罪悪感を感じる夢を見ながら昼寝から覚めたのです。潜在的に自分への嫌悪感が増幅されている可能性は捨てきれません。なんという昼寝マトリョーシカ。



・カフェに行って、

1) 日本で購入してきた免疫学の参考書を読む

2) 論文や総説に目を通して研究テーマについて考える

→これが一番大きい。カフェである必要はないが、家だとどうしてもパソコンでYouTubeなどを見てしまう。本だけを持って出かければ、本を読める。気晴らしはせいぜい携帯電話くらい。しかしこれだと論文を印刷しなければ(2)は難しい。あくまでしたかったメインは(1)だろう。


確かに今日できなかったことではあるが、今後したいことを言語化できた。自分のなかでこの本を読むことが一番すべきと考えていることだと再認識。


そして(2)はざっくりしている。具体的にどの論文を読みたいと思っていたのか、ぶっちゃけよく把握していなかったのである。

「昼寝したせいで論文読めなかったと感じていても、実はそもそも今日読もうとしていた論文はなかったのかもしれない。」


こう書いて、そういえば読みたい総説あったわ、と思い出す。Ruslan Medzhitovのラボからでた免疫代謝の進化的側面についての総説だ。


しかし上記の一文は消さない。もし会話だったら巻き戻して発言を消去できない。できることは訂正、場合によってはそれに加えて謝罪することだけだ。いまは謝らない。被害者がいないから。



昼寝をしてしまったせいで触れられるはずだったはずの情報に触れられなくなってしまった。

というのが自分を嫌った原因だろう。



・「とてつもない」の由来は?


いま、ブログからタブを切り替えて検索してみた。気が向いたからだ。

とてつは「途轍」。途は道、轍は車輪の跡。それらがない、すなわち、筋道からはずれていることを指し、それが転じて「並はずれた」という意味になったそうだ。


昼寝をしなければ検索しなかったことをできた。昼寝をした自分に感謝だ。

もっというと恥も外聞も捨てて昼寝したことをアウトプットしたから得られたものだ。特にこのブログは匿名だから、よく考えれば初めから恥も外聞もないのである。



いろいろ書き連ねたが、要は昼寝をしたのはぜんぶボストンが寒いからで、いま僕はかつてのJR Skiの広告「ぜんぶ、雪のせいだ」にかつてないほど共感し、改めて広瀬すずの可愛さに思いを馳せている。




寒いからベッドに入った。

じゃあ、どうすればよかったのでしょうか。


暖房を入れればよかったのかもしれません。そういえばまともに暖房入れてなかったな。

あるいは、えいっと家を出てしまえばよかったのでしょう。言うは易し行うは難しですが、いまは言う時間なので。




昼寝の機会損失は、もう取り戻せないのでしょうか。

夜も同等に寝ればそうでしょうが、もし起きて本を読んだら?徹夜なんていうと大それた発言かもしれませんが、今は目が冴えているので、眠くなるまでは本を読む、ということはできるはずです。


明日は今日よりもやる実験がちょっと多いですが、言ってもいつもの時間に始めれば、お昼くらいには終わります。眠いなかの勉強は難しいですが、眠いなかの実験は比較的できます。やらねばならないという意識が強いし、体を動かすので。


ここまで書いてきて、昼寝により漠然と抱いた巨大な嫌悪感は実体化され、なんとなく今は気分がすっきりしています。昼に寝たのなら、今から本を読めばいいや、と。そして、身体が眠くなったら寝ればいい。このままでは時差ボケがなおらない気がしますが、もし必要ならば少しずつ身体が適応してくるでしょう。逆に言えば、そうでないなら、それは「実は時差ボケを修正する必要がない」生活なのかもしれません。



なにより、ただ昼寝をしただけのクソな一日も、掘り下げればこんなに長い文章に変わるのです。たいそうな調べ物をしたわけでもないので、スラスラと書けます。


アウトプットのハードルを極限まで下げた結果です。




「明日、また同じように昼寝をしたらどうしよう。」


その時はその時。同じ一文から、違った思考が生まれるかもしれません。僕らは人間です。何もしていないと感じていても、実は何かをしています。例えば仕事をサボっていればその間YouTubeを観ているわけだし、そこを掘り下げれば何かがあるかもしれない。何を見たかすら覚えてなくても、何系の動画が多かったかくらいは覚えてるかもしれない。掘り下げれば、自分の潜在的な願望とかが見えてくるかもしれない。




掘り下げた結果でもネガティブになっていたら、自分がした些細なことを褒めてみるのも大事かもしれません。


例えば今日の僕で言えば、

・朝4:30に起きて細胞を播種した

・普段書かないけど実験ノートに詳細を記載した

・お昼にセミナーに参加した。後半の発表内容は、メモすらとっていないのにその内容と同定された遺伝子名を覚えている。いま殴り書きしてみよう。

・メールを返した


他の人から見て当たり前でもいいじゃないですか。あるいは自分から見てあたりまえでも、他人から見たらそうじゃないケースもあります。



何も得られなかった一日。インプットがなくたって、こういうアウトプットはできます。

むしろ、インプットがなかったときこそアウトプットしてみたらどうでしょうか。

そのアウトプットは他人に何かをインプットさせることが目的ではないので、有益な内容が伴っている必要はどこにもないのです。



読み手を意識する?そんなもんくそくらえ。自分のために思考を言語化すると、どういうわけかスッキリしますし、それだけで一日が有意義だったんじゃないかとすら思えます。



おすすめです。